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STORY20
あれから20年!
難産の末誕生したハウスが、
ご家族同士が励まし合う
理想のハウスに成長
財団関係者
長瀬 淑子さん
至難の連続だった
第1号ハウスの誕生まで
「せたがやハウス」20周年おめでとうございます。
財団の設立とハウス建設にかかわった者としてこれほど嬉しいことはなく感慨しきりです。財団ができたときは10を超えるハウスができるなどとは予想もできませんでした。それ程第一号ハウスの設立は難産の末の誕生でした。
そもそも「せたがやハウス」は、国立大蔵病院の土地にこども病院と周産期医療を包括する母子のための高度専門医療をになう国立成育医療・研究センターの構想に伴ってうまれたものでした。そこには当時の病院長だった故開原成允先生(前理事長)の「他の病院にない特徴作りがしたい」との想いが詰まっていたのです。
財団設立まで
当時はドナルド・マクドナルド・ハウスを知っている人はひと握りのアメリカに留学した小児科医位なものだったので、まずは勉強会から始めました。勉強しているうちに、運営母体として財団を設立することが急務だということがわかり、まず財団の設立に奔走しました。当時は、公益法人は増やさないという国の方針があり、ハウスのスピリットはボランティアの活用にある、という論理で推し進めていただいた当時の厚労省の炭谷社会・援護局長(現財団理事)のご尽力でやっと財団が設立されました。
今後は土地問題
近所の地主さんのお宅にもお願いに伺いましたがうまくいかず、病院内の土地の一部に建てようとしました。しかし、当時の法律では国の土地の上に建てた建物は国の管理下に置かれると定まっており、財団が直接ハウスを運営することができないので、病院側と頭を絞り、競売の末病院の土地を財団が買い上げました。地鎮祭の日は「やっとここまできた!」という感慨で目頭が熱くなました
ボランティアさんの確保
ハウス運営の主体はボランティアさんです。
しかし、日本ではまだボラティア文化が行き届いている状況ではなかったので、どのように集め研修するか五里霧中でした。読売新聞の医療部長さんに頼み込んで東京版に記事をとして掲載していただいたところ大きな反響があり、ホッと胸を撫でました。それから2か月位かけて、近所の区の会議室を借りて私と現事務局長の山本さんとハウスマネージャーとで一人一人面談をさせていただきました。真夏の盛りに大汗かいて会議室に通ったのを覚えています。
そのようにして集まった約200人のボランティアさんとともに企画した開所式は感動ものでした。
多くの支援者の皆さまのお力により
患者さんとご家族と
ともに成長したハウス
国立成育医療・研究センターは期待通り、日本の子どもと周産期医療のトップとして全国から患者さんが来院され、ハウスは常にフル稼働で多くのご家族に安心して利用いただき、ご家族同士が励まし合う理想のハウスに成長しました。
このようにハウスは設立前から、様々な分野の方のお力で成り立ってきました。「せたがやハウス」は、その先陣を切って日本に新しい医療文化を築いた原点のハウスです。
ボランティアさんの温かい志、確固たる理念、そして病院との共調、財団はそんな皆さまが力を発揮できるようバックアップしていくことを願っています。