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東日本大震災を乗り越えて

2012年07月06日

震災から1年が過ぎましたが、震災当日にハウスに滞在していた方々からメッセージを頂戴しました。
私たちは『はやく元気にな~れ』の気持ちを込めて、これからも病気のこどもとその家族の笑顔のため、家から遠く離れた病院に入院しているこどもと、その付き添い家族の「第2のわが家 Home away from home」を目指して活動していきます。ご協力をお願いいたします。

 

宮城県大崎市古川/村田 瑠己翔(むらた るいと) くんのお母さん

村田 瑠己翔(むらた るいと) くん

村田 瑠己翔(むらた るいと) くん

生後一ヶ月で発覚した「心房中隔欠損症」・「肺動脈弁狭窄症」と言う病気。肺の弁が普通のお子さんより狭く地震の当日14時から17時までの予定で、こども病院で足の付け根から肺までカテーテルを通し狭い弁をバルーンで広げる手術をしていました。そして14時46分。長く強い揺れの大地震!一人病室で待っていた私は怖い!と言うより手術中の我が子が心配になりました。病院の病室にいた家族の皆は病室から出て一つに身を寄せ合い何度もの余震に怯えていました。私も病室から出たものの地震より我が子が無事か心配で心配で…丁度夫と長男も次男の手術・入院に一緒に来ていたものの長男が「パパとマクドナルドハウスで遊びたい!」と言ってハウスに行っていたので私は一人手術中の次男の容態が心配で不安でした。そして間もなくして手術着を来た看護師さんが駆け付けて来て「今は手術は中断していますが待機電力で地震が落ち着きましたら再開します。お子さんは大丈夫です!」との事。地震から1時半経った頃まだ麻酔で眠っている次男は病室に戻って来ました。間もなくして主治医が駆け付けてくれ手術結果の説明がありました。「いざカテーテルを通し狭さを見てみたらバルーンで広げる必要は、今回はない」との事。「様子を見て明日には退院しても良いでしょう。」と説明されました。そして次の日先生の許可を得て退院してきました。帰り道、道路は通行止めやガタガタ道…やっと我が家に着いて部屋に入ると食器やTVは倒れ足の踏み場もありませんでした…当然、電気・ガス・水道も使えず大人だけなら我慢出来る食事やろうそく生活も子供達には不安だったようでその日から家族四人で4日間程近所の集会所でお世話になりました。幸い子供達は夜も思っていたよりグッスリ眠れ、昼間も楽しく過ごしました。しかし当時6歳の長男は弱い余震でも怖がっていました。当時2歳の次男は怖がる様子もなく先月で4歳になりました。
今はさすが男の子!戦いごっこにはまっています。保育園に髪を結んでいくのもマイブームらしく毎朝自分でゴムを持って来て結んであげています♪病気の経過も良く毎日元気いっぱいです☆

 

岡山県赤磐市/鷹取洋二さん

3月10日、重度の心臓疾患を抱えて誕生した孫は、長時間に及ぶ手術を受けたあと、集中治療室に入った。翌11日、孫の顔を見にいき一息入れていた時、突然グラッ!ときた・・・。ライフラインが完全に切断されたその時から、宿泊していた「せんだいハウス」とこども病院を往復する生活が始まった。命を見つめ、命を考える重くて苦しい生活が・・・。そんな中で、”ハウス”に帰るとなぜか落ちついた。そこには、重い病を共有している母子、家族がおり、ボランティアから差し入れられたパンや牛乳、カップ麺、おにぎりに味噌汁があった。付き添いのお母さんが、提供されたお米をガスボンベで炊き、あったかいご飯を紙コップに入れて差し出してくれた。真っ暗闇のダイニングで懐中電灯の灯りだけで食べた夕食は、それはそれは温かいものだった。岡山から来ていた私達夫婦のハウスでの生活は6日間だけだったが、何物にもかえがたい貴重な体験をさせてもらった。
残念ながら孫の”佑飛”は、わずか53日の短い生涯を終えてしまったが、おもいやりの心で苦難を分かち合い、いたわりあって生きていく、ハウスが発信しているこの理念があれば未曾有の大災害も必ずや乗り越えられるだろう。

 

宮城県気仙沼市/芳賀るみさん

私と息子の大和(やまと)は、病院からの外泊で利用していたマクドナルドハウスで地震に遇いました。私は直ぐにいつも通りに生活出来ると安易に考えていたので、ラジオから流れていた震災の情報を聞き、この地震と津波の凄さを知りこれからどうなるのだろうと怖くなりました。自宅は高台にある為津波の被害はありませんでしたが、家族と連絡が取れるまで安否が分からなかったので不安な毎日を過ごしました。ハウスで始めは電気は使えませんでしたが、水は共同棟で少し出ていた為トイレとキッチンが利用出来たので助かりました。また、ハウスにカセットコンロや土鍋、米、うどんなどがあったのでハウスの利用者さんと一緒に食事を作る事が出来ました。車椅子で子供を連れて何時間も並んでの買い物やガソリンを入れるのが大変だった為、色々な方から物資を頂いて本当に助かりました。
帰宅してみたら地元は津波の被害で大きく変わっていました。今は少しずつ店も増えてきていますが、前のような港町に戻るのは時間がかかりそうです。

 


 
宮城県知事からのメッセージ

宮城県知事 村井 嘉浩

宮城県知事 村井 嘉浩

東日本大震災では、せんだいハウスにおきまし てもライフラインが停止するなど、困難な状況が 続くなか、多くのボランティア、スタッフに支えら れ乗り越えてこられました。 2003年11月に誕生し、これまで多くの患者家族に利用されてきたせんだい ハウスは、今後ますますニーズが高まってくるものと考えております。県といたしましても、まちや産業を再構築し、「元気な宮城」、「安全・安心な宮城」 をつくり上げていくための取り組みを県民の皆さまとともに進めてまいりたいと 考えております。復興に向けて共に頑張りましょう。